第1話|彼氏の知らない夜 ― 女子大生がパパ活で知った快楽
財布の中身を見つめるたびに、胸の奥が冷たくなる。
佐伯美咲、二十二歳。大学二年。学費は奨学金でなんとかしているが、家賃や生活費はアルバイトだけでは追いつかない。親にこれ以上負担をかけることも、優しい彼に甘えることも、どうしてもできなかった。
「……パパ活って、本当に稼げるのかな」
カフェで友人から聞いた言葉が、耳の奥で反響する。短期間でまとまったお金が手に入る。危うさを分かっていても、背に腹はかえられない。
その夜、美咲は震える指でマッチングアプリを開いた。プロフィール写真に映る自分は、就活を意識して撮った無難なスーツ姿。登録して数時間で、数人からメッセージが届く。
中でも一人――「黒川俊哉」という名の男性が、穏やかな口調と余裕のある短文でやりとりを重ねてきた。
『初めてなら、無理しないで。食事だけでもいい』
その一文に、美咲は少し安心した。
数日後、約束の夜。
待ち合わせは駅近くのホテル街にあるビジネスホテル前。足が竦む。知らない大人の男性と会うことに、怖さと同時に奇妙な高揚感が入り混じっている。
「……美咲ちゃん?」
低く落ち着いた声がした。振り向くと、そこに立っていたのは四十代前半に見える男性だった。短髪で日焼けした肌、スーツの下からも分かるがっしりした体格。
写真よりも実物の方が迫力がある。だが、その笑みは柔らかく、目元に年上の余裕が漂っていた。
「黒川です。会えてうれしいよ」
手を差し出され、美咲は思わず小さく会釈した。
「は、はじめまして……」
夜風に頬が冷えるはずなのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
これは、ただのお金のため。そう言い聞かせても、心臓は早鐘のように鳴り止まなかった。
初めての待ち合わせ。心臓の音が自分にだけ大きく聞こえているのではないかと思うほど、美咲は緊張していた。
黒川はそんな彼女の様子を見透かしたように、柔らかい笑みを浮かべて言う。
「今日は、ご飯だけにしようか。無理はしなくていいから」
その一言に、美咲の肩から力が抜ける。押し付けてくるような雰囲気はなく、むしろ彼女の緊張を和らげようと気を配っている。三十代後半――自分より一回り以上も年上。大人の余裕が、仕草の一つひとつに滲んでいた。
近くの落ち着いたレストランに入ると、黒川は慣れた様子で注文を進め、さりげなく美咲の好みを聞き出してくれる。ワインを勧められても、彼は「無理なら頼まなくていい」とすぐに引く。強引さがない。
話題も、大学の授業や将来の夢など、美咲が話しやすいことばかり。自然に笑っている自分に気づいたとき、少し驚いた。
「思ったより、怖くなかった……」
帰り際、駅まで送ってもらいながら、美咲は小さく呟いた。
「それならよかった。また、会ってくれる?」
「……はい」
頷いてしまった。
その夜、ベッドに横になっても、黒川の落ち着いた声が耳に残っていた。まるで自分が特別に扱われているような、そんな錯覚。
数日後。
スマホに通知が来た。黒川からのメッセージ。
『この前はありがとう。今度は“大人5”で会わないか?』
大人5――パパ活用語で、セックス1回で5万円の意味。
画面を見つめる指が震える。
「……たった一回で、五万円」
アルバイトを何十時間もしないと得られない金額。それが一度で。怖さと同時に、抗いがたい現実感が喉を詰まらせた。
経営学部で聞いた“雑所得20万円ルール”が頭をよぎる。これを何度も受け取ったら確定申告……?
いやパパ活やってる人の大半が真面目に確定申告なんてしているわけない。
それより彼氏以外の男の人とそういう行為をする方が良くない。悪いことだとは分かっているが、背に腹は代えられない。
通知の明かりが、暗い部屋でやけに鮮やかだった。
黒川から届いた「大人5」という短い誘い文。画面を見つめ続けていたその時、スマホが震えた。表示された名前は――彼氏、翔太。
『今度の休み、どこか遊びに行かない?』
胸の奥に甘い痛みが走る。翔太は誠実で、真面目で、私をいつも気づかってくれる優しい人。デートの誘いも久しぶりで、本当なら飛びついていたはずだった。
だけど、その日はすでに黒川との約束の日。
私はしばらく迷って……指が勝手に動いていた。
『ごめん、バイト入ってるの』
送信した瞬間、胸の奥が重くなる。翔太の顔を思い浮かべる。きっと寂しそうに笑って、仕方ないよって言うんだろう。そんな姿を思い描くたびに、罪悪感が膨らんでいった。
――でも。
一度だけで五万円。数日必死にバイトしても届かない額。それが、ただ一晩で。
私は画面を閉じ、深呼吸した。自分に言い聞かせるように。
「お金のため……仕方ない。これは、必要なことなんだ」
そして当日。
指定されたホテル前に立つと、黒川が現れた。前回と同じように落ち着いたスーツ姿。がっしりとした体格に似合わない柔らかな笑み。
「美咲ちゃん、こんばんは。今日も来てくれてありがとう」
その穏やかな声に、不思議と緊張が和らぐ。初めて会ったときの恐怖は、もうない。むしろ安心している自分に気づき、胸の奥でざわめきが広がった。
ホテルのロビーは静かで、空調が快適に効いている。チェックインを済ませ、二人で部屋に入ると、黒川は軽くワインを注いでくれた。
「無理に飲まなくてもいいよ。ほんの一口だけ」
グラスを差し出され、私は素直に口をつけた。
アルコールの熱が舌を撫で、緊張がほどけていく。
ベッドの横のソファに並んで座り、しばらくは前回と同じように世間話をした。大学の講義、最近読んだ本、流行りの映画。彼は聞き役に回り、時折ユーモアを挟んで笑わせてくれる。
――まるで普通のデートみたい。
そう錯覚してしまうほどの居心地の良さ。
けれど、心の奥ではずっとざわついていた。
翔太のこと。
「彼氏以外の男性と身体を重ねる」ことへの抵抗感。
そのたびに頭の中で繰り返す。
一回だけ。たった一回で五万円。
コスパは、いい。 そう、何度も。何度も言い聞かせてきた。
グラスの中で氷が溶け、淡い音を立てた。
その音が合図のように、黒川の視線が変わる。
「美咲ちゃん」
呼ばれただけで、喉が鳴る。
視線を逸らそうとしても、もう動けなかった。
ほんの数秒の沈黙。
その静寂の中で、彼の手がそっと伸び――
グラスを置いた瞬間、私たちの距離が、決定的に近づいた。